聖人一流の御勧化のおもむきは、

信心をもって本とせられ候。

そのゆえはもろもろの雑行をなげすてて、

一心に弥陀に帰命すれば、

不可思議の願力として佛のかたより

往生は治定せしめたまふ。

そのくらいを一念発起入正定之聚とも釋し、

そのうえの稱名念佛は、如来わが往生をさだめたまいし。

御恩報盡の念佛とこころうべきなり。

あなかしこあなかしこ。

 

 

 

私の救われてゆく道

 

私の中に佛になれる種は何処にも無い。

それどころか私に備わって有るものは、

地獄への種ばかりである。

親鸞聖人は「とても地獄ぞ一定すみかぞかし。」

と御自身を見つめられておられます。

一日一日を生きてゆくことは、

罪を作り続ける毎日であるからです。

私たちはこの命をいただくためには、

多くの他の命をいただかなければ一日たりともかなわない事であるからです。

 

 

その私が救われる?

 

その自分の姿に気づかせていただくこと、そしてそんな罪深い私が、手を合わせる前に、弥陀如来から願われ手を合わせられていたことに気づかせて頂く時、驚きの声として、喜びの声として、お念仏が私の口からもれてくれたのです。

御聖人様はそのお念仏の一声に

正定聚不退の位が具わっていると教えてくださいました。

如来のお働きによって救われてゆくからです。

それで無ければ救われてゆく道のない私であるからです。

祈りのお念佛ではない、喜びのお念佛

御恩報盡の念佛でありました。

 

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