信心獲得すといふは、
第十八の願をこころうるなり。
この願をこころうるといふは、
南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。
このゆえに、南無と帰命する一念の處に、
発願廻向のこころあるべし。
これすなはち、
弥陀如来の凡夫に廻向し ましますこころなり。
これを大経には、令諸衆生功徳成就ととけり。
されば、
無始已来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく、
願力不思議をもって消滅するいはれあるがゆえに、
正定聚不退のくらいに住すとなり。
これによって、煩悩を断ぜずして、
涅槃をうといへるはこのこころなり。
この義は、當流一途の所談なるものなり。
他流の人に対して、
かくのごとく沙汰あるべからざる所なり。
よくよく、こころうべきものなり。
あなかしこあなかしこ。
不思議
今、テレビでは「あなたの知らない不思議な世界」、
などと、まことしやかに人々の不安を煽る様な番組が、
はばをきかせています。
しかし、テレビ局の一番の関心事は如何に多くの人に見せるか、と言うことであることを忘れてはなりません。
それが真実か否かは問題にならないのです。
不思議とは神秘と言うことと同義語ではありません。
正しくは不可思議と書き、
人の頭では考えが及ばない、思議出来ない、
と言う意味です。
いつまでだまされ続けることに我慢しますか。
悪業煩悩が消滅する?
私がつくった罪は、決して消えることはありません。
それは誰であろうが、何をしようが、消えることのない、
深い深い罪なのです。
私が今ここに言う罪とは、道徳的、倫理的な罪だけを指しているのではありません。むしろ、それ以外の生きることにより知らず知らず積み重ねている罪のことです。
あなたはまだ、何かをすれば救われると、
その罪から逃れられると考えてはいませんか。
もし仮に、
ひとつのすばらしい善行が身に備わっていたとしましょう。
そうするとどうでしょうか。
これで自分は少しはほかの人よりはましだと
言う気にならないでしょうか。
仮に、ほんの少しましであったとして、
それが今まで行ってきたことにとって、
どれだけの価値あがあると言うのでしょうか。
それどころか、ましだと言う心は、慢心を生みます。
仏教ではきつく戒められる心の動きです。
自分の力で出来ると思う心が生まれてきます。
残念ながら、往生の道に自分の力は少しも及びません。
そこに、弥陀の本願が立てられてあるのです。
お念仏申すのみです。